先見性のある才能:ウィンザー&ニュートンを使用した5人の偉大なアーティスト
1832 年の創業以来、プロフェッショナルなアーティスト用画材の開発をリードしてきたウィンザー&ニュートンは、何世代ものアーティストが世界最高級の製品を用いて創造性を表現することを可能にしてきました。崇高なインスピレーションから精神的な苦痛まで、ウィンザー&ニュートンのマテリアルを使って傑作を生み出した、時代を超えた5人の芸術家の作品をご紹介します。
The Scream, Edvard Munch, 1893 The Munch Museum/The Munch-Ellingsen Group, BONO, Oslo/DACS, London 2014.
エドヴァルド・ムンク(1863-1944)
フランスのサロン画の滑らかな仕上げに慣れ親しんでいた当時の大衆により、ムンクの初期の粗雑な作風は公然と笑いものにされました。 しかし、その後、ムンクは一目でそれとわかる絵を描き続け、その絵には彼の悩める精神が表れています。その中でも『叫び』は2012年に7400万ポンドという史上最高額で落札されました。ムンクはオスロ美術館に多額の遺贈を行い、その中には250本以上のウィンザー&ニュートンのアーチスト・オイルカラーが含まれています。
Waiting For The Shops to Open, LS Lowry, 1943 The Estate of LS Lowry All Rights Reserved, DACS 2014.
LSラウリー(1887-1976)
昼は家賃集金人、夜は画家として活躍したラウリーは、生まれ育ったイングランド北西部の労働者階級の産業生活を描き、絶大な人気を博しました。彼は一度、「私は単純な人間だ。アイボリーブラック、バーミリオン、プルシャンブルー、イエローオーカー、フレークホワイトしか使わず、メディウムは使わない」と言いました。 ラウリーは生涯、この5種類のウィンザー&ニュートンのウィントン・オイルカラーだけを使い、チューブから出してそのまま使うため、比較的硬い粘度の絵具を好んで使いました。
Homage to the Square, Josef Albers, 1976, The Josef and Anni Albers Foundation/VG Bild-Kunst, Bonn and DACS, London 2014.
ヨーゼフ・アルバース(1888-1976)
1933年に渡米する以前、ワシリー・カンディンスキーやパウル・クレーらとともにドイツのバウハウスで教鞭をとった教育界と芸術界のパイオニアです。1948年にイェール大学のデザイン学部長に任命されると、色彩の相互作用を探求する絵画シリーズ『Homage to the Square 』を開始し、鑑賞者が独自の光学的体験を形成することを可能にしました。素材の品質に強い関心を示したアルバースは、ウィンザー&ニュートンのアーチスト・オイルカラーを多用し、キャンバスの裏面に色名とロット番号まで書き込んでいます。彼の絵画は、ニューヨークのMOMAやロンドンのテート・モダンなど、世界の主要な美術館で見ることができます。
Rain, Steam and Speed, JMW Turner, 1844, Wikipedia Commons
JMWターナー(1775-1851年)
わずか14歳でロイヤル・アカデミーに入学したターナーは、生涯にわたって自然の影響に強い関心を抱き続け、自ら船のマストに縛り付けられて暴風雨を体験したほどでした。 この「光の画家」は、より鮮やかで透明感のある色彩で風景画や海景画を描いた印象派の先駆者でした。後世の人々を軽んじていたターナーは、時間が経つと退色する顔料を故意に使用していました。親友のウィリアム・ウィンザーからこのことを咎められたターナーは、「ウィンザー、君の仕事は色を作ることだ。私の仕事は色を使うことだ」と言いました。
Composition B No II with Red, Piet Mondrian, 1935, Courtesy of Tate Liverpool
ピエト・モンドリアン(1872-1944)
モンドリアンは、1911年から14年にかけてパリに滞在した際、モンパルナスのアトリエで幾何学的で超モダンな絵画を制作し、モダニスト芸術家を訪ねるには必見の場所となりました。 作家で画家のミシェル・スーフォールは、 モンドリアンのアトリエに入ったときの体験を、別世界に足を踏み入れたような、「信じられないほどの美、平和、静寂、調和の感覚」を生んだと表現しています。第二次世界大戦中にニューヨークに移ったモンドリアンは、『ブロードウェイ・ブギウギ』(1942-43)など、最も有名な作品を制作しました。しかし、戦争は彼の絵の具を奪い、彼は友人に「NYではウィンザー&ニュートンの絵の具は品切れしてしまったようだ」と嘆いています。※1
※1 シャルミオン・フォン・ヴィーガンド、未発表の日記、1941 年 9 月 16 日の記録
*Lead image sourced from Wikipedia Commons