ウィンザー&ニュートンと水彩画の黄金時代:1750年〜1850年

優れた画家の輩出と技術の大きな進歩が重なり、 1750年から1850年にかけてイギリスでは水彩画の黄金時代が到来しました。ここでは、この時代の画家たちが水彩画の表現力をどのように発展させていったのかということを、風景画に注目しつつ、ウィンザー&ニュートンをはじめとするイギリスのメーカーがどのようにそれを可能にしたのかについて考察していきます。ニッチで特殊なものだった水彩画が、プロとアマチュアの両方のアーティストが楽しめる、広く利用可能な新しい芸術様式へと変遷していく様子をご紹介します。

1780年以前の水彩絵具

水彩絵具は1780年以前には、軍事用の地図の製作や、植物学における分類学的な図解の作成など、特殊な用途に使われていました。 個人の土地所有者は「トポグラフィ・アーティスト(地形画家)」を雇って自分の所有地を記録した図を披露して自慢していました。ウィリアム・パース(William Pars, 1742 - 1782) という画家は、現地で鉛筆で丁寧に絵を描いたものを、後で水彩絵具で彩色していました。

 

水彩絵具の材料は、薬屋で購入することができました。アラビアゴムとして知られるアカシアの樹液が固まったガムを水で薄め、乳棒と乳鉢で砕いた顔料と混ぜることで水で濡れている間は描くことができる絵具を作りました。

絵画のような風景

18世紀のイギリスの田舎は仕事場や私有地であり、近寄りがたい場所でした。  1782年、ウィリアム・ギルピン牧師(1724-1804)が、田園風景の鑑賞の仕方について新しい考えを打ち出した水彩画のスケッチで彩られた旅行ガイドを出版したことで、それまでの常識が覆されました。旅行ガイドはセンセーションを巻き起こし、愛好家たちは彼のガイドに従って、「クロード・グラス」(映り込ませると色と階調が単純化され絵画的なイメージが作り出される、画家が風景を観察するために用いた黒い鏡)を使って、「ピクチャレスク(絵のような)」な風景を探し求めました。画家たちもすぐにこれに続き、この田園風景との新しい関わり方によってイギリスの風景画の伝統が初めて認識、確立されました。JMWターナー(1775-1851)とジョン・コンスタブル(1776-1837)の作品にイギリス風景画の頂点を見ることができます。1781年に色彩画家ウィリアム・リーヴスが何度も使える固形水彩絵具を発表して以来、屋外でのスケッチに最適な水彩がより簡便なものになりました。水を引き寄せる親水性で完全に乾くことがないハチミツを絵具に配合することで、絵具は再湿潤化できるようになりました。しかし再湿潤化には手間がかかり、使用前に固形水彩絵具を水に浸し、カキ殻や陶器の皿に勢いよくこすりつけておく必要があったのです。

J.M.W. Turner, Tintern Abbey: The Crossing and Chancel, Looking towards the East Window 、36x25 cm、水彩絵具、1794年。パブリックドメイン、ウィキメディア・コモンズ経由。

ターナーとコンスタブル

水彩は、ターナーとコンスタブルの風景画における革新の中心的存在でした。1794年に制作された「ティンターン修道院」(作品下)は、ターナーが水彩画を着色された素描による地形図から、独立した表現芸術へと発展させたことを示しています。ターナーは現場で作業するために固形水彩絵具を水で濡らし、古い革製のフォリオカバーの中に貼り付けて独自のフィールドセット(野外スケッチセット)を作りました。コンスタブルは水彩絵具の即時性を生かし、気象学という新しい科学を推進するほど正確な空の研究をスケッチをしました。スケッチの裏面に書かれた雲の種類、場所、時間、風速などのメモは、彼がスタジオで制作した絵画の魅力である豊かな場所の感覚に、説得力を与えています。夏の間、サフォークの野外で絵を描いていたコンスタブルは、冬になるとロンドンに滞在し、スタジオと下宿を構えていました。

ロンドン 1832年

化学者のウィリアム・ウィンザーと実業家のヘンリー・ニュートンは、1832年、芸術家を対象にした絵具職人ビジネスの可能性に胸躍らせていたに違いありません。ウィンザーの自宅と仕事場は、ロンドンのフィッツロビアのラスボーン・プレイス38番地にありました。この通りは、芸術家のアトリエが立ち並び、彼らが対象としているプロフェッショナルな芸術家の人々で賑わっていました。50番地にはジョン・コンスタブルが隣人として住んでおり、JMWターナーも常連客となります。「ウィンザー、君の仕事は色を作ることだ。私の仕事は色を使うことだ」。

 

世界でも最も工業の発達した都市であったロンドンでは、熟練した工具職人や、顔料を精巧に挽き、粉砕、精製できる工場を確保することができました。そしてそれは「次の世代のための国際標準を設定する」こととなりました。

Winsor & Newton Archiveにあるチャイニーズホワイトの顔料。

才能ある化学者であったウィンザーは、1834年に水彩絵具に使用するために配合された最初の白であるチャイニーズホワイト(図2)を発表し、1835年には新しい「モイスト(湿った)」水彩絵具を作り出し、ウィンザー&ニュートンの初期の成功に貢献しました。グリセリンを配合することで、ウィンザー&ニュートンの固形水彩絵具は、濡れた筆でなぞるだけで再湿潤するようになったのです。ラスボーン・プレイス周辺の芸術家や実業家の創造的な環境には、ウィンザー&ニュートンの仲間でターナーの絵具職人だったジョージ・フィールド(1777-1854)のような才能ある科学者もいました。フィールドが新たに合成したコバルトブルーやバイオレットなどの色は、ターナーはすぐに使いこなし、芸術的表現にあふれた水彩画を生み出しました。

Winsor & Newton Archiveにあるコバルトブルーとコバルトバイオレットの顔料。

ターナーとコンスタブルは水彩画を一変させましたが、1830年代後半にはウィンザー&ニュートンの工業的製造基準、新しい配合、鮮やかな新色、便利なパッケージがまた水彩絵具を一変させたのです。

J.M.W ターナー、ライム・リージス、29x44cm、紙に水彩絵具、1834年。パブリックドメイン、ウィキメディア・コモンズ経由。

水彩画ブーム

絵画のような美しさを求めるファッションと、市販の画材を用いた水彩画の流行は、現在「イギリス芸術」として世界的に知られるようになりました。水彩画はイギリスの社会と教育の中に溶け込み、特に中流階級以上の若い女性に受け入れられました。ウィンザー&ニュートンは、画材市場の「最高級」の基準を設定し、他のメーカーもすぐに追従しました。いわゆる「シリングカラーボックス(錫製のポケットサイズの水入れやパレットなどが付属する水彩スケッチセット)」は、1853年から1870年の間に1100万個以上売れました。

 

おそらくイギリスの特徴として、水彩画の黄金時代は、ターナーやコンスタブルのような優れた才能を持つ芸術家だけでなく、アマチュア芸術家にも広く普及したことが挙げられます。この時代のアーティスト用絵具の開発は、優れた芸術家、化学者、実業家などの世代によって加速され、ウィンザー&ニュートンのプロフェッショナル・ウォーターカラーは国際的な模範基準として現在に至っています。